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2011年6月 2日 (木)

薩摩の伊勢神宮大宮司が「廃仏論者」だったのか?

 鹿児島県の「横並びする二つの鳥居」が見られる『南方神社』は「明治以前」には『諏訪神社』であった。

鹿児島県出身の歴史作家「桐野作人」氏が、「南日本新聞」に寄稿連載する『さつま人国誌 第195回』に、関連する興味深い「維新史」を報じていた。
 
 幕末「薩藩の史料」に登場せず、いわば謎の「田上藤七」なる人物の名が山口県萩市の「松陰神社」に建つ「薩長土連合密議之處」碑に見えるが、

 この「田上藤七」は、明治になって「田中頼庸」と名乗っている「田中藤八」のことではないか、ということであった。

 この時、ジブンテキな関心は、この人物が『強硬な廃仏論を唱〔とな〕え、伊勢神宮大宮司になるなど、神道界の実力者』だったと言うことで、

 『南方神社』名への変更もこの人物の差し金か、と思い、「鹿児島県姓氏家系大辞典」をめくった。が、予想どうり「その名はなかった」。

 ただし、「いろいろ反響があった」とのことで、先日、その『第196回』に「続き」が報じられた。

 「田上藤七=田中藤八=田中頼庸」は、1868(明治元)年、藩校造士館の国学局初講と神社奉行を拝命したこと、

 1869(明治2)年7月、『田中藤八氏よりの文あり、朝夙〔あさはや〕く船出してたつ、神道につく』などとの記録があり、明治政府の神祇省(のち教部省)出仕のため上京したこと、

 その後、教部省の教部大録や神宮大宮司などを歴任し、神道界に重きをなすようになったこと、

 1887(明治20)年12月、玉里邸で島津久光が他界し、国葬が執り行われたとき、
 教部省大教正となっていた田中は「斎主〔さいしゅ〕(神道祭祀の主宰者)」を拝命した、

 とある。

 「維新の廃仏毀釈」に関連しては、「仏像」だけでなく「人の暮らし」を脅かした「宗教」の実態を「歴史の現実」として昭和20年代には聞いた。

 ジブンテキには、その「維新期」の「神社統合」や「諏訪神社を南方神社」への社名変更の意義はなんであったのか、歴史のままでは、どのような「不都合があった」かである。

   関連;→笠沙路探訪 2009年 正月号    『守護神』 は 造物主「天之御中主神」

 「田中頼庸」ならば教えてもらえるかもと思うが、著書は2冊だけが県立図書館には在る。関連するところが載るものか。

  ◎神道事務局 祭神論争

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